デカルトの密室 | |||
瀬名秀明 | 新潮社 | 480項 | 2005年 8月 |
ロボット・ケンイチに、心が芽生えたのか、自由意識を持ったのか、の判断は読み手次第でしょう。 ロボットが設計者の意図しない行動をとったとき、それは自由意志なのか、バグなのか。 しかし、他人の目線で自分も登場する小説を書くということは、他と隔絶した自分の立つ位置を理解していなければ出来ません。 それは、取りも直さず、自我があるということなのではないでしょうか。 人間も、両親によって、DNAという設計図を元に、細胞で組み立てられた、いわば機械です。 平気で人を殺す輩もいれば、自分を犠牲にして他人に尽くす人もいる。 どこまでがロボットで、どこからが人間だと線引きがあるわけじゃなく、どれぐらい人間らしいかの判断なのです。 まあ、あれだけ盛り上げておいて、最後の締めが今ひとつな感は否めません。 それでも、『知性』に挑んだこのミステリー、専門知識を持った人が読めば「それ、おかしくね?」という箇所もあるかもしれませんが、素人の私は興味深く楽しめました。 それはさておき、フランシーヌがやろうとしたことについての考察です。 フランシーヌ・オハラ、私はすぐに‘真賀田四季’を連想しました。 しかし、読み進めると分かりますが、フランシーヌのレベルは四季より下位です。 彼女は自分の思考をインターネットに解き放ち、スケールフリー・ネットワークの中で成長させることで、複数の自意識を確立させ絶対的メタ視点に立とうとした。 確かに人の自我は脳の密室に閉じ込められているでしょう、しかしその密室は一つではなく、複数存在するのです。 私達はその一部屋を自分として認識しているに過ぎません。 それは例えるなら、クリスマスツリーに付いた豆電球、ただしそのコードは直列ではなく、切換え式の並列回路。 たまたま光が灯った一つが自分。 フランシーヌは、その電球をすべて点け、クリスマスツリーごと自分になろうとした。 脳の密室を抜け、身体の密室を抜けた、しかしそれでも第三の密室・宇宙からは逃れられない。 たかがクリスマスツリーになった程度で、家と一体化できると信じ、そして隣の家も理解できると勘違いした科学者です。 人は人生において、ずっと同じ自分ではないのです、成長という意味ではなく。 何かのきっかけで自分が変わったことを、きっと誰しも経験したことがあるはずです。 男と女の前で態度が違う人、大きな事故にあい人生観が変わった人…。 フランシーヌは他人の心が分からないが故に、人の多重人格性を理解していませんでした。 人には幾つものボクがいる。 幾つもの自我を同時に発現したとき、人はどうなるのか? それを実験してからでも遅くはなかった、四季のように。 だいたい自分が実験代になってどうする、現象を観察できる位置に居なくてどうする。 彼女が得たもの、それは世界性ではなく永遠性ともほど遠い継続性のみでしょう。 |
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